ここでは、本願寺の歴史
本願寺が今の場所になるまで等を
簡単にお話しいたします。
本願寺の歴史 親鸞聖人のご生涯というのは、 師、法然上人が起こされた『浄土宗』を 真実の教えてして仰いでおりましたが、 のちに、 浄土真宗という一宗が成り立っていくこととなった。 そして、現在、本願寺は 西本願寺として京都の堀川六条にありますが 元々は、どのような経緯でその場所に至ったのであろうか また、起源は何であったのか? 親鸞聖人が亡くなられた次の日、 末娘の覚信尼や数人の弟子達によって 鳥辺野の延仁寺で荼毘された聖人のご遺骨を拾骨され、 大谷にあった法然上人のお墓のそばに納骨されたのである。 そこに廟堂(お墓にお堂を建てる)を作ろうとしたが あまりにも狭かったため、大谷の中の吉水の北に移し そこに廟堂を建て、同時に六角のお堂を建て 親鸞聖人の影像を安置したと言われています。 この廟堂は地名を冠して「大谷廟堂」と呼ばれた。 そして、この墓所こそが、 本願寺の発祥の地であり、覚信尼をはじめ 直系の子孫が、留守職として守ることとなっていったのである。 そして、当寺の亀山天皇より 『久遠実成阿弥陀本願寺』という号を与えられ ”本願寺”という名称の起源となった。 聖人の亡くなられた後、 聖人の子孫や門弟達の努力によって、教えは次第に広がり 寄り合って聞法・談合するための道場や 本尊である阿弥陀如来を安置するお堂(阿弥陀堂)をも 建てられていった。 また、聖人の曾孫にあたる覚如上人は、 「本願寺聖人親鸞伝絵」(絵によって歴史を顕す)などを顕し、 教えが正しく伝わることに努力されました。 しかしながら、その後の本願寺は衰退の一途をたどる。 そこで、本願寺第八世 蓮如上人は、 応仁の乱前後の戦国乱世といわれる時代に 戦乱にあけくれ動揺する人々に親しく接し、 教えをわかりやすく説き、それを簡明な文章にしたためて 各地の門徒を教化されていかれました。 それらの文章は、のちにまとめられて『御文章』とよばれ親しまれております。 また、親鸞上人の著述のなかから、「正信偈」や「和讃」を 朝夕のお勤めに読むようにされていかれました。 このような熱心な伝道活動より、 浄土真宗は一気に広まりをみるのであった。 それにつれて門徒の組織をもとに、 近畿、北陸、東海地方などに一揆が続発しました。 これがいわゆる、「一向一揆」というものであります。 こういうことより、圧迫がかかり、 大谷にあった本願寺が破壊され蓮如上人は 遠く加賀(石川)や越前(福井)に移らなければなりませんでした。 しかし、かえってこの地方一帯に浄土真宗が 広まることとなったのである。 蓮如上人は、その後京都の山科に本願寺を再建され 庶民の間に教えを広く伝えていかれたのである。 この第八代門主(本願寺の住職) 蓮如上人は 中興の祖(ちゅうこうのそ)、 最近では、変革の上人、イノベーター上人と言われ 現在のように浄土真宗がここまで広がる基礎を作り上げた方であります。 蓮如上人没後、山科本願寺はふたたび戦乱に巻き込まれて焼かれたため 淀川河口の石山(現在の大阪城付近)に移りました。 そこでもまた、十一代顕如上人の時代に、 天下統一を目指す織田 信長は、その地の明け渡しを要求してきました。 本願寺はそれを拒絶したため、 これを機会に真宗の巨大な力を潰そうと考え 石山本願寺を攻撃してきたのです。 この一大法難を聞いて多くの僧侶や門徒が全国より集まり 教団を守り抜こうと戦い、十一年という長い年月を経たのでありました。 そののち、本願寺は和歌山や大阪を移りましたが、 豊臣 秀吉が土地を寄進し、ふたたび京都に戻ってくることが出来たのです。 それが、現在の地であります。 - 本願寺境内案内図 - (クリック) 本願寺の歴代門主 (本願寺の住職) @親鸞 | A如信 | B覚如 | C善如 | D綽如 | E巧如 | F存如 G蓮如 | H実如 | I証如 | J顕如 | K准如 | L良如 | M寂如 | N住如 | O湛如 | P法如 | Q文如 | R本如 | S広如 | 21明如 | 22鏡如 | 23勝如 | 24即如 (現在のご門主) |