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(法話タイトル) | (地域) | (所属寺) | (氏名) | (年・月) |
.「五濁悪時群生海 応信如来如実言」 | 帯広市 | 帯広別院 輪番 | 立森成芳 | 2005.1 |
.「氷を溶かす あたたかな ひかり」 | 帯広市 | 帯広別院 | 中嶽真教 | 2005.1 |
「私が私であって良かったと言える あなたになれ」 | 芽室町 | 寶照寺 | 泉恒樹 | 2005.2 |
「人間の知恵と仏さまの智慧」 | 音更町 | 光明寺 | 臼井教生 | 2005.2 |
.「度衆生のこゝろ」 | 大樹町 | 誓願寺 | 頓宮彰玄 | 2005.3 |
.「お経をいただくご縁」 | 清水町 | 寿光寺 | 増山誓史 | 2005.3 |
「智慧のはたらき」 | 帯広市 | 帯広別院 | 伊澤英真 | 2005.4 |
「いのち」 | 帯広市 | 帯広別院 | 伊澤英真 | 2005.4 |
「足の裏のつぶやき」 | 鹿追町 | 浄教寺 | 池上恵龍 | 2005.5 |
.「真実を写し出す鏡」 | 芽室町 | 大船寺住職 | 三浦敬篤 | 2005.6 |
.「本願力にあいぬれば」 | 帯広市 | 帯広別院 | 谷口昭栄 | 2005.6 |
「仏法は身体で聞く」 | 新得町 | 新泉寺 | 高久教仁 | 2005.7 |
「「今」を生きる」 | 浦幌町 | 太子寺 | 皆川隆信 | 2005.9 |
「あなたが大切だ」 | 音更町 | 西然寺 | 白木幸久 | 2005.10 |
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願作仏[がんさぶつ]の心はこれというお示しがあります。賜[たまわ]りたるご信心の内容を“願作仏心・度衆生心”とされ、念仏者として社会の問題に取り組んでゆく依り処となるご文[もん]でもあり、近年重要なご文だと言われております。
度衆生[どしゅじょう]のこゝろなり
度衆生の心はこれ
利他真実[りたしんじつ]の信心[しんじん]なり
(お釈迦さま) 「そなたたちは何をしようと思ってここに集まっているのか」お釈迦さまはいのちをまもるためにいのちを共に奪い合うことの愚かさ・矛盾をさとされました。
(代表者たち) 「戦うためです」
(お釈迦さま) 「何のために戦うのか」
(代表者たち) 「水がほしいからです」
(お釈迦さま) 「何のために水がほしいのか」
(代表者たち) 「米を作るためです」
(お釈迦さま) 「何のために米を作るのか」
(代表者たち) 「いのちをまもるためです」
『足の裏のつぶやき』富山に住む私の先輩・阿部行道さんが作られた促の裏のつぶやき」という詩です。私たちは、社会を論じ、人の行いを批判することには長けていますが、自分を振り返ったり、身近で普段世話になっている入や物に目を向けることは案外おろそかになっています。この詩は、「たまには、後ろを振り返って、疎かにしてきた、見過ごしてきた大切なものに目を向けてください」というメッセージだと思います。
重い体に踏みつけられ、他人はおろか当人にも省みられず。
ほめられもせず、いたわられもせず、
ただ、もくもくと支えつづける、
風呂に入っても丁寧に洗ってくれる人は少ない、
それでいて、熱いところに、いきなりつけられるのは
決まって「足の裏」
くさい靴下の中で、じっと我慢を強いられ
窮屈な靴に押しこまれ、何十年経っただろう
たまに私の顔を覗いても
ひび割れた甲、しわがれた皮膚、変形した指を眺め
アーアーと、ため息をつくが
溜息つきたいのは私の方だ、誰が私をこんなにした。
昔から人間は、人生とは、白分とは、杜会のあり方はと問い続けております。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、当時、知恵者を自任するソフィストといわれる哲学者たちに、「なんじ自身を知れ」と問答法をもって問うています。自分は何者であるか。これを知らずして、すべてのことは始まらないと言います。また、ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなくて、よく生きることだ」と述べています。よく生きるとは、正義をまもることであると言います。
そのソクラテスはソフィストたちに市民裁判にかけられ、死刑の判決をうけます。彼は、弟予たちに亡命をすすめられますが、不当な判決ではあるけれども、都市国家の正義を貫くためと、自ら毒杯をあおいで死にます。この中、ギリシアの都市国家は衰退していきます。
いつの時代も、正義の下で論争が生じ、それが動乱や戦争へと拡人します。現代でも、科学が進み、社会が発展しいるはずですが、さまざまな問題を抱えております。人問の知恵で解決したいものですが、まだまだ未熟であります。
自分を知ること、よく生きること、どれをとってもその答えを得るのは、なかなか難しいようです。
自分のものさしで、ものを見る。そのものさしは、都合よく、ときには長くもなり、短くもなる。自分の持つものさしは、当てにならないものです。そして、自分の顔を、自分白身で見えないように、真の自己が見えてきません。自己を写し出す鏡が、必要に思います。
我が身の真実を写し出す鏡は、何でありましょうか。親鸞聖人のお言葉に
浄士真宗に帰すれどもとあります。み仏の光・教えを通して見えてくる世界でありましょう。偽りのない我が身が見えてくる、虚仮不実と見えるのです。
真実の心はありがたし
虚仮不実の我が身にて
清浄の心さらになし
お電話有り難うございます。十勝組テレホン法話でございます。
一昔前は人生50年といいましたが、今日では70年とも80年ともいう時代になってきました。"昔はよかった"と言われるご老人もいらっしゃれば、"長生きしてよかった"と現代を肯定する人もいます。いずれにしても、わが身の都合で、その時代を否定したり、肯定したりしているのではないでしょうか。ただ、人生50年といわれた時代は、今日のように、あれもこれも、したり見たりせねばならないというような忙しさはなかったようです。人生にかなりの余裕を持ちながら、しかもわが人生は50年なのだという、ある一線を引いて、充実した豊かな人生を送ろうと心がけていた人たちが多かったように思います。
いくら長生きしても、出会うべきものに出会って人生を終わらなければ、人間として生きたことにはならないのです。つまり、寿命は長さで計るべきものではなく、その人の人生における豊かさ深さでいうべきだということです。自分を深く見つめて、充実した豊かな人生を生きるためには、今私たちは、何をどうすればよいのでしょうか。
苦労せず生きてきた人は一人もいないはずです。要はその苦労が、その人をどのように育てたかということです。私はこのままで人生を終わってもよいのか、と自分を振り返ったとき、せっかくの苦労が無駄に終わっているとするならば、何か空しいものを感じることでしょう。
そのように"空しいなあ"と感じたなら、その空しさをどうしますか。まぎらすのであれば自分の趣味などがあるでしょう。又、最近では健康法が流行し、盛んになってきているのではないでしょうか。いかに健康で長生きし好きなことをしていても、自分の人生のなかにおいて大切なものに出会わなければ、人生を空しく過ごしてしまうことになるのではありませんか。その空しさを自覚する道は、仏の本願に会い、本願に生かされていく生活を始める以外にないのではありませんか。
親鸞聖人は
本願力にあいぬればむ むなしくすぐるひとぞなき
と和讃にうたわれています。本願力に遇[あ]うとは、聞法して本願を信じ念仏を申す人となることですが、ただ本願を信じられるようになったということではなく、すでに成就している本願の火が私の煩悩を燃やし続ける。充実した人生を生きるとは、そのように私の煩悩に本願の火がつき、負うべき課題をもち、それを問い続ける人生が始まるということではないでしょうか。
よく法座などのお説教の中で「仏法は耳で聞くのではなく、身体で聞くものですという言葉を耳にいたしますが、これはどういうことでしょうか。
今年は例年になく遅い春でありましたが、それでも5月も中旬を過ぎると野山の草木も青々と芽吹き、新しい命の声に力を頂ながら日々の法務を動めております。
そんな中、先日、ある一人暮らしのおばあさんのところへ月忌参りにお伺いしたときの話です。
早朝、いつものようにおばあさんのお宅の門をくぐり、右手に畑を眺めながら玄関に向かうわけでありますが、なにやらいつもと違う景色に驚いた私は、玄関に入るなりおばあさんに尋ねました。
「おばあちゃん、畑どうしたい。耕してあるじゃないか。また、無理して。体、大事にしなきゃ駄目だよ!」
というのもおばあさんは、20年程前にご主人を亡くされてから、2人のお子さんが札幌方面に就職されていたこともあって1人暮らしとなり、少しでも家計のためにと宅地の周りの庭を畑に耕して、大根や小豆、カポチャやキュウリなど立派な野菜を作ってはお子さんたちに送ってあげることが一番の楽しみになっていましたが、5年ほど前から関節痛、腰痛に悩まされ、最近は歩くのも杖をついてやっとという状態で、自慢の畑もこの2年間
は休んでおられました。それなのにその畑が縞麗に耕してあるではないですか。
おぱあさんのいうには、この2月にお兄さんが亡くなり、今は転動で函館にいる息子さんが葬儀のために帰省され、たとき、あまりの大雪だったので葬儀の後1泊をして、家の周りを椅麗に除雪をしていってくれたそうです。その後、何を思ったのか5月の連休に突然訪ねてきて休んでいた畑を耕していったそうです。葬儀のときに会った母はぴっくりする程年老いていて、息子さんもお母さんのために何かせずにはおられなかったのでしょうか。
「おばあちゃん、それは良かったね。息子さんに会えたのも、また野菜が作れるのもネ!」
ところがおばあさんは言い返します。
「いや、いや、見てご覧なさい。今まで畑なんかいじったことのない息子だから…こんなのは土をひっくり返しただけで耕したとはいえないねえ」とかなり不満そう。
「おぱあちゃん、息子さんにまさかそんなことをいったんじゃないだろうね。」
おばあさんは少し考えてからこう言いました。
「厳しく育ててきた息子でねえ。こんな仕事しかできないと思うと情けなくてねえ。のどもとまで出かかったけれどもねえ…口から出てきた言葉は『遠くからすまなかったねえ、ありがとねえ』という感謝の言葉だったんだよねえ。不思議とねえ…考えてみたら、私がもう少し元気だったらきっと『なにやってんの』と叱りつけていただろうねえ。私の弱った、老いたこの体が、息子の優しい気持ちを素直に受け止めさせてくれたのかねえ。何だか有り難いねえ。なんだかねえ。」
なんと深い味わいでしょうか。
頼りにしているこの私自身が一番頼りにならないものだとわかったとき、今まで見えなかったもが見えてきたり、聞こえなかったものが聞こえてきたりする。この味わい。私は今まで聞かせて頂いたことの実践静で聞くことであると思っておりましたが…。
「仏法は身体で聞く」
日々壊れゆく、変化してゆくこの身体こそが仏法の真実を私に教えてくださっているのだと改めてこのおばあさんのお言葉に教えて頂きました。
なもあみだぶつなむあみだぶつ
まだまだ残暑厳しい日が続く今日この頃ではありますが、皆様いかがお過ごしでしょう。
今年の天候は、異常というほど、寒暖の差が激しく、体調がおかしくなる程です。7月だというのに寒い日が続き、朝晩はストーブをつけていたかと思えば、8月に入ってからはいきなり猛暑となり、急いで扇風機をつけている始末です。寒ければ寒いと文句を言い、暖かくなればいいなあと思い、暑くなれば暑いと愚痴を言い、涼しくなればいいなあと願っています。私の本当の心の中を考えてみると毎日毎日が不平不満そして愚痴いっぱいの日暮らしであります。もう二度とは来ないこの「今」を誠実に謙虚に有難く生きているかといえば、そうではないなぁーと思わされることであります。
有名な布教使の先生が百歳になられた時のことです。ある出版会社の記者がインタビューに来ました。ご高齢である布教使の先生は大変耳が遠く、付き人をまじえて対談をしました。出版社の記者が、「長生きの秘訣は何ですか」とたずねると、付き人が布教使の先生の耳もとで大きな声で、「長生きの秘訣は何ですかと聞いておられます」と叫びます。すると、布教使の先生は、「う~ん、よく食べてよく働いてよく眠ることかぁ」と答えました。こんな感じで対談は進んでいきました。最後の方で記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。付き人からこの質問を聞いた布教使の先生は、「あなたは今、何歳ですか」と逆に質問しました。記者はすぐに「43歳です」と答えると、布教使の先生は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは43歳の時です」と答えました。
次の日、違う出版会社の記者が来て、同じようにインタビューをしました。記者は、「今まで生きてきた中で一番良かったのは何歳の時ですか」とたずねました。布教使の先生は、昨日と同じように、「あなたは今何歳ですか」と逆に質問しました。「私は55歳ですが…」と記者が答えると、「私は今まで生きてきた中で一番良かったのは55歳の時です」と言いました。
昨日は43歳が、今日は55歳が一番良かったと答えています。しかしながら、布教使の先生がおかしなことを言っているのではありません。「今」この時が、一番大切でかけがえのない時間であるということを言いたかったのです。
不平不満、愚痴いっぱいの毎日が、この今が、この一瞬が、阿弥陀様のはたらきの中でありましたとよろこばせていただくことであります。
遠くの山々では、もう「白い便[たより]」が届いているとのこと。秋のお彼岸も過ぎ、一日一日冬支度[ふゆじたく]が進んでいる、今日この頃です。健康とは、「体は健[すこ]やかに、心は康[やす]らかに」という意味だそうですが、皆様、健康な日々を送っていられるでしょうか。
先日のことですが、「滝川市内の小学校で自殺」とのニュースが流れていました。朝、登校してきた同級生が、教室で首をつって、ぐったりしている女の子を発見。先生が人工呼吸して、救急車で病院に運びましたが、意識不明の重体とのことでした。
どういう理由で自殺しようとしたか、どんな悩みを抱えていたのか、定かではありませんが、小学6年生といえば、まだ11歳か12歳。同じような年頃の子を持つ親として、胸の痛みとともに、我が子への不安をかき立てられました。
同じく、6月のことでしたか、長崎県佐世保市で、小学6年の女の子が同級生の首をカッターナイフで切って、殺害した事件が起こりました。後からの真相によれば、血が噴き出して、動かなくなっていく姿を、しばらくじっと見ていたとのことです。何のことはない、いつ生き返るかと思って見ていたらしいのです。その後の調査でも、「人は死んでも生き返ると思っている小学生が多い」との報告には、びっくりさせられました。まさか、自殺を試みた女の子も、自分は生き返られると思って、自殺したわけではないでしょうが……。
「人生は苦なり」とは、そのために仏教をお開きになった、お釈迦様の言わずと知れたおことばですが、自分の人生、自分の命を簡単に終えていこうとする、子どもたちがいます。以前でしたら、取るに足らない子どもの自殺は考えられなかったのですが、簡単な理由で、命を絶っていく子どもたちがいます。またその一方で、簡単な理由で、人の命を傷つけ、奪っていく子どもたちがいます。一体、いつのころから、いのちがこんなにも軽くなったのでしょうか。
目の前の生き物たち、地をはうもの、海を泳ぐもの、空を飛ぶもの、この世に生きとし生けるものたちはみな、いのちを惜しみながら必死に生きようとしています。私たちがつかまえようとすれば、必死になって逃げまどいます。だれも好んで、つかまろうとはしません。
世の中に生きる無数の生き物たちのなかで、人間として生まれてくることは、すくいあげる砂ほどにまれなことなのです。お釈迦様は、人間として生[せい]を享[う]けたという、希有[けう]なことを自覚してほしいと説きました。でも、現実に生きている私たちには、「希有な生を享けた」という実感がわくこともなく、毎日に追われています。それこそが、自殺を試みたり、他人を簡単に殺そうとする事件を生み出す背景となっているように思われます。
人間は、ほかの生き物と違って、自分で自分を見つめることができます。自分の良いとこ、悪いとこ、自分の弱さや不安、さらにはいのちの果てまで、自分で計り知ろうとします。これを「自覚」といますが、この自覚こそ、私たちに、大いなるエネルギーを与えます。自分が人間として生まれたことや、いまこうして、いのちがあることの有り難さの「自覚」が、いまを精一杯生きようとする力となるのです。
「命は地球よりも重い」とは言われますが、
命は大切だ。命を大切に。そんなこと何千何万回言われるより、あなたが大切だ、誰かがそう言ってくれたら、それだけで生きていける
と新聞広告にありました。そう言ってあげてほしいと思います。そのほうが、どんなにか、子どもの心に響くことか……。
改めて、私たちは、子どもたちがどれほどの尊いいのちを持っているかを自覚し、父母の立場にあれば、「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも本当にうれしい。あなたは大切な人」と、いつでも語って聞かせてあげてください。祖父母の立場ならば、なおさらのこと、お孫さんがかわいく思えることでしょう。ですから「あなたが生まれてきてくれて、お父さんもお母さんも、本当にうれしく思っている。おじいちゃんとおばあちゃんもそう。あなたは大切な人なのよ」と、何度でも語ってほしいと思います。それが、自分のいのち、そして自分以外のいのちの大切さを知る第一歩になっていくと思います。