l 十勝組 2007年の法話
十勝組 2007年の法話

(2007年2月~12月)


(法話タイトル) (地域) (所属寺) (氏名) (年・月)
「味わい深い人生」 足寄町 照経寺 鷲岡康照 2007.2
.「私の生きていく方向」 芽室町 願恵寺 藤原昇 2007.2
.「教えの中に生かされてゆく日暮らし」 清水町 寿光寺 増山孝伸 2007.3
「心の鏡」 中札内村 眞光寺住職 桃井浩純 2007.4
.「新しい春を迎えるにあたって」 清水町 妙覚寺住職 脇谷暁融 2007.4
.「まさに貪欲こそ、苦の原因」 音更町 浄信寺住職 御幸誓見 2007.5
.「お経を読ませていただく心構え」 新得町 立教寺 千葉照映 2007.6
.「お慈悲を生きる」 豊頃町 大正寺 高田芳行 2007.7
.「「布施をする」という生き方」 帯広市 光心寺 桃井直行 2007.7
「「一寸先は闇」?」 音更町 妙法寺 石田智秀 2007.8
「どちらを向いても仏のふところのなか」 芽室町 願恵寺 藤原昇典 2007.8
「コスモス」 浦幌町 太子寺 皆川隆信 2007.10
.「そのままのお救い」 音更町 妙法寺 石田秀誠 2007.12
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味わい深い人生

足寄町 照経寺 鷲岡康照 (2007年2月前半)

 今年は暖冬の影響か、例年よりも気温が下がらず、雪も少ないようです。おかげで、普段の生活では楽なところもありますが、お参りに行く先々で、暖冬で困っているという話を聞くと、喜んでばかりもいられません。

 この冬、その暖冬の影響を身近に感じたのは、ご門徒さんとの会話からでした。昨年末あたりから、「寒くならないので漬け物を漬け込むタイミングを迷う」とよく聞いたのです。

 ありがたいことに、お参りに伺ったときなどに、「ご院さんが好きだから…」と言ってお茶とともにお手製のお漬け物を出していただいたり、おみやげにいただくことがあるのです。どこのお宅でもそれぞれの味があり、おいしいものばかりです。

 さて、そんな“漬け物”を題材に詩を書かれた方がいます。ご存じの方も多いでしょうが、現代の妙好人[みょうこうにん]とも言われる榎本栄一さんという方です。まず一遍ご紹介しましょう。

『漬け物野菜』

 白菜や蕪の持ち味は
 漬け物にするとよくわかる

 簡単な言葉で書かれた、なんてことはない詩のように思えます。しかしもう一遍の詩を知るとその味わいはグッと増します。

『漬物』

 漬物には
 重石がだいじである
 私という漬物に
 これは 天からいただいた重石
 どうぞよい味に漬かってくれ

 傍目から見れば、重くて辛そうな重石。しかし、その重石は漬け物を押しつぶそうとしているわけではなく、より味わい深くするためのものなのです。

 人生を歩む中で、辛いこと悲しいことはなければいいと思うことはあるでしょう。けれど、一切の苦しみがなかったら、そこには他者に共感が出来ない、鈍感な一人の人間がいるだけでしょう。しかし、苦しみがあったとしてもそこには愚痴・怒り・悲しみがあります。どこまで行っても救われない私がいる。

 そんな私のことを救わずにはおれないというのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまの願いを聞き、願いの中で生きていく。そうすると逆境も漬け物の重石のように「おかげさまでありました」という仏恩に転じていく、味わい深い人生を送ることができるのでしょう。

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.私の生きていく方向

芽室町 願恵寺 藤原昇 (2007年2月後半)

 おかげさまで新年を迎えさせていただきました。そう思っているうちにもう2月になりました。月日の過ぎることの早いことに驚いています。

 昨年もさまざまなニュースがありましたが、次から次へと起こる重大事件に記憶が追いつかないほどです。皆さんは如何でしょうか。

 暗い事件が多い中、スポーツ界では、イナバウアー荒川静香さんの金メダル、王監督率いるジャパンのWBCでの優勝、日本ハムの日本一など、スポーツ界での明るい話題が心に残っています。特に「連投しても大丈夫な体に生んでくれて、ありがとうと言いたいです」と決勝戦後に話したハンカチ王子こと、斉藤祐樹投手の一言は皆さんも心に染みたのではないでしょうか。

 学校給食のことですが、「いただきます」(ごちそうさま)は給食費を払っているのだから、子どもには言わせないで欲しいと言う親がいて、結局フエの合図になったという学校がある話は随分前に聞いていましたが、最近は「頼んだ覚えがない」「勝手に食べさせている」と言って給食費を払わない親、どうしようもなく校長先生たちが支払っても全く考えを変えない親が全国的に増えてきているとのこと。

 このような暮らしのどこから、優しい心・率直な態度・感謝を言える子どもが育つのでしょう。

 槙原敬之という歌手をご存知でしょうか? この人の歌で『親指を隠さずに』という歌があります。この詩の中に

黒い車をみつけても
親指を隠さずに
手を合わせよう決めたんだ
親の死に目に会えないとか
不安な迷信を
まだ幼い子どもに教えたりするその前に
もっと教えておくべき
大事なことがある

 とあります。

 火葬場に向かう車が来たら親指を隠すと聞いたけれど、そんなことはしないで私は合掌します、ということです。それは変な迷信と思う人がいたら、決して他人事でも、遠い地方のことでもありません。もっともっとすごい迷信を信じている私たちがいるのではないでしょうか。

 いま教えを聞き、伝えなければならない私たちの番が来ています。いつか暇になったらとか、まだまだ若いからとか‥‥。

 いろいろ理由はあるかもしれませんが、お寺の法座にお参りして、私の生きていく正しい方向を聞かせていただきましょう。

世間の暇をあけて法を聞くべきように思うこと、あさましきことなり。仏法には明日ということはあるまじきこと‥‥

 と、蓮如上人は声を大にしておっしゃっていました。

 この私のために‥‥。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏‥‥。

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.教えの中に生かされてゆく日暮らし

清水町 寿光寺 増山孝伸 (2007年3月後半)

 今年は暖冬と言われながらも季節は少しずつ移っていることが、風や土の匂いにも春の気配を感じるようになりました。

 親より先に子どもに亡くなられることは、親にとっては耐え難いものです。一人息子に若くして先立たれ、いつもお寺参りに足を運んでくださるお婆ちゃんがおられ、柔らかな笑顔を絶やさず熱心に聴聞されておられました。

 「お寺に来ると、亡くなった息子に会え、みんなとおしゃべりができるから、とても楽しくてしょうがないんだよ」

 先立つ人は後を導くと言います。亡き子をご縁として、仏さまへのご縁にあわれた方でした。

 一人この世に残された息子への思いをお婆ちゃんは「会いたい 会いたい 息子に会いたい」と、お布施の裏に書かれたこともありました。その方も、今は亡くなってしまいました。

 私たちには死んでも阿弥陀さまのお浄土に生まれかわり、再会できる世界が用意されています。

 きっと、今は、このお婆ちゃんも、お浄土での息子さんとの再会を喜んでおられることでしょう。

 自分を支えてくれる大きな命の流れを振り返ることも時として必要です。今、この世の中の流れにまどわされて、自ら迷いの人生を送っているのではないでしょうか?

 私たちは、「いのち」の恵み、ありがたさを感じながら、仏さまの教えの中に生かされてゆく日暮らしを送りたいものです。

 春のお彼岸です。皆さんの菩提寺でも彼岸会法要をつとめられることと思います。命のふるさと、お寺に足を運びましょう。

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心の鏡

中札内村 眞光寺住職 桃井浩純 (2007年4月前半)

 私にとって一番大切なものは、と問われたならば、それは言うまでもなく、「私の命」と答えるでしょう。なぜなら、「私の命」は父母、兄弟、姉妹、夫婦等、誰もが代わることができず、そして二度とない人生を生きる命であるからこそ、一番大切であり、尊いのであると思います。

 そうしたかけがえのない命をいただきながら、そのことを日々確認もせず、吟味[ぎんみ]もせず、人と比べて安らかな思いのないまま今日に至ってはいないでしょうか? それは何故でしょうか。

 その因[もと]を尋ねれば、おそらく人間は、「いつもいつも」「幸せでありたい」「自分の思うがままに生きていきたい」という欲望が心の根底にあると言ってよいのではないかと思います。

 すなわち、むさぼり、いかり、おろかさです。悲しいことですが、自己中心的な考え方の表われだと思います。

 その結果はなかなか自分の思い通りには進みません。その時、自分にとって都合の悪いことは他人のせいにし、他人が薄情だなど、他人に責任転嫁をし、自分をふりかえることなく他人を批判してしまう傾向があるのではないでしょうか。

 他人のせい、他人が薄情だとみえるのも、その多くは自分の蒔[ま]いた種の証であるということに、気づきたいものですネ。

 善導大師[ぜんどうだいし]のお示しになったお言葉に、「経は教なり、また鏡なり」というのがあります。お経は教えであり、鏡であるということです。

 誰も代わることのできない命をいただき、二度とない人生を生きるからこそ、如来のみ教えを鏡として、その鏡に自分の姿を写し、ふりかえってみることが大切なのではないでしょうか。

 二十年ほど前、私が砂利道で自動車を運転中、「ゴトーン!」と音を立てて落ちてきたものがありました。慌てて車を止め、よくよく見ると、ルームミラーでした。ルームミラーがないと不安で落ち着いて運転できないものですね。ルームミラーで後ろを確認しながら運転するからこそ安心して走れるものだということを、身をもって体験しました。

 これと同じように、私たちの人生も、自分をしっかりと写し、照らし続けてくれる鏡を持つことが、生きていくうえに大事なことだと思います。

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.新しい春を迎えるにあたって

清水町 妙覚寺 脇谷暁融 (2007年4月後半)

 ようこそ、浄土真宗本願寺派 十勝組[とかちそ]のテレホン法話におかけくださいました。

 今回は、わたくし清水町妙覚寺の脇谷が担当です。

 今年度も4月になり、一斉に新しい始まりを迎えました。入学や就職、それぞれのお宅でもお身内におられるのかもしれません。私たちの十勝組でも、組長[そちょう]をはじめ役員がそれぞれに変わり、新体制でのスタートを切ろうとしているさなかです。これから十勝に住まいする私たちに関わる大きな行事としました、今年の11月には帯広別院の100周年のお祝いの法要を迎えます。また2011(平成23)年の親鸞聖人750回大遠忌法要までの5年間、この新しい十勝組、帯広別院の顔ぶれでみなさまとともに念仏の歩みを進めたいと考えております。

 念仏のみ教えはこのように750年以上もの間、人々の、そして私たちの人生に大きくかかわるものとして、長い歴史を積み重ねてきました。先人の多大なご苦労は想像を絶するものがあり一口に表現することはできません。またそれは、一軒一軒の名もなき多くの人々によって、親から子へとそれぞれがそれぞれに伝えられてきたものでもあり、そのみ教えが、いよいよ私自身の人生において、今届いてきてくださっているのも事実です。その中で、私たち自身は今一度、阿弥陀如来の本当の願いをたしかに受け取って生かされているかを、たずねてみなくてはなりません。

 ありがたいことです。もったいないことです。と言葉に表わされてきましたが、何がありがたいのか、何をもったいないと言ってきたのか、本当の願いに聞き訪ねてみたことはあるでしょうか。ありがたいと言っている私自身が、ほかの人のことはどうでもいいこと、それは関係ないこととして、多くの人々のいのちをないがしろにし踏みにじって生きてはいないでしょうか。もったいないことと言いながら、自らの人生を深く顧みることなく、適当なところで開き直って生きてはいないでしょうか。

 浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来のみ名[みな]を称[とな]える念仏一つという世界から、自らをどこまでも掘り下げていくことで深く味わい、人のいのちを踏みにじり、自らに開き直ってきた私自身の姿が、あきらかにしらされていくことを信心といただいてきました。

 阿弥陀如来は、すべてのいのちはすべて平等にあってくださることを私の上に知らせています。しかし、私たち自身は平等、平等と言いながら、ほかかの人を差別し見下し、嫉妬や怨みを抱いて生きてきたのではないでしょうか。それが長い歴史の中で、教えを味わう中に含まれてしまっているとしたら、大変悲しいことになります。

 新しい春をみなが迎えるこの時期、私が味わってきた念仏ははたして、私の人生においてどうであったのか再確認してみる機会とも言えましょう。

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.まさに貪欲こそ、苦の原因

音更町 浄信寺住職 御幸誓見 (2007年5月前半)

 ひと昔前のバブル全盛期ほどではありませんが、大型の詐欺事件が報道されています。今でも時々こんな電話がかかってきます。「大変お得な情報がありますが、いかがでしょうか」のような類の話です。

 そうした電話には「そんなに儲かるなら、他人に教えないで自分だけのものにしたらどうですか」と答えて断りますが、敵もさるもの、「それはそうですが、私ひとりだけでなく、皆さんにも儲けてもらって幸せになってもらいたいのです」と返ってきます。

 人間の欲望というのは、際限がありません。なければないで欲しがりますし、あればあったでそれらをもっと増やしたいと欲が出ます。先の電話の話も、そうした人間の弱さをついた話といえますが、欲しい欲しいという貪[むさぼ]りの心が、自分自身を苦しめているのではないでしょうか。まさに、貪欲[とんよく]こそ、苦の原因です。

 お釈迦さまは私たちに、貪欲をはじめ三毒の煩悩を取り除かなければ、さとりを得ることができないと諭されました。ちょうど田畑において、雑草を抜いておかなければ、実りを収穫することができないのと同じです。

 しかし、困ったことに、雑草は抜いても抜いても下から生えてくるのと同じく、煩悩も次から次へとわきおきってきます。

 そうした煩悩を断ち切ることができない人間の実相を見抜かれ、それでもなお「必ず救うぞ」と呼びかけ続けてくださるのが阿弥陀如来であることを、尊くありがたく仰ぎたいものです。

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.お経を読ませていただく心構え

新得町 立教寺 千葉照映 (2007年6月後半)

 ようこそお電話くださいました。十勝組テレホン法話でございます。

 よく、お経を聞かせていただきますとありがたいですね、心が休まりますね、ということを耳にいたします。

 さて、ありがたいと言っている方に理屈を言うようで申し訳ないのですが、いったいどういうところがありがたいのでしょうか。

 お経の中身がわかってありがたいのか、それとも世間の相場ではお経はありがたいものときめてつけているのか。

 恐らく後者ではないでしょうか。私たちも含めてほとどんどの方はお経を聞いて内容をすっと理解できる方は少ないのではないでしょうか。

 特殊な語学を身につけている方は別として。無理もないことであります。日本語ではありませんから。

 お経とは、ご存知のとおりインドの国でお釈迦さまがお弟子さんを集めて、自分がさとりを開いた内容、すなわち「ご法話」をされました。2500年昔のことであります。筆記用具、メモ帳があるわけでなく、まして録音器具があるわけでもありません。当時は尊いお言葉は身をもって聞きなさいという習慣がありました。ですからお釈迦さまが生きておられる間は良かったのですが、問題はお亡くなりになった後、出てまいりました。

 メモがありませんから「いやそんなふうには聞いていない、私はこう聞いていた」というふうに少しずつ聞き違いがでてきてしまったのです。

 こんなことではせっかくのありがたいお釈迦さまのご法話が歪められてしまうと嘆かれ、お弟子さん方が集まり、書き残されたもの、それがお経であります。

 そのお経が中国へと渡っていきます。中国ではそれを何年も何十年もかかって中国語へと翻訳されました。やがて日本へも渡ってきたのですが、そこでは翻訳できなかったのであります。それをそのままいただいたのです。

 ですから今、私たちがいただいているのは中国語そのままのお経と言ってもいいわけです。日本人が中国語のお経を聞いているわけですから理解しがたいのも当然のことであります。

 理解した者だけを救うという教えではありませんが、お釈迦さまが生涯かけて、命をかけて説き続けてくださったみ教えであります。

 解らせていただこう、味合わせていただこうとする心の中から読ませていただく、それがお経を読ませていただく真摯な心構えではないでしょうか。

 お電話ありがとうございました。担当は立教寺、千葉照映がさせていただきました。

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.お慈悲を生きる

豊頃町 大正寺 高田芳行 (2007年7月前半)

 お電話ありがとうございます。こちらは十勝組と西別院テレホン法話です。

 仏説無量寿経には「仏さまのこころは大きな慈悲のこころ」と説かれています。

 親鸞聖人もご和讃に「お釈迦さまは慈悲のお父さん、阿弥陀さまはお慈悲のお母さん」と著されています。

 仏さまにおいて慈悲は、もっとも重要な意味を持つ言葉と言われています。

 慈悲の「慈」とは相手に楽しみを与えることで、「悲」とは相手から苦しみを抜き去ることです。この慈悲を体得して、相手を差別しないで慈悲をかけるものが「覚者」[かくしゃ]、すなわち仏であり、それを象徴的に表現したものが、観音菩薩、地蔵菩薩といわれています。

 やさしくいうなら、慈悲とは「相手と共に喜び、共に悲しんであげる」ことでありましょう。やわらかい言葉に置き換えれば「あたたかな心」ともいえましょう。

 昔、あるところに、勝円さんという慈悲深いお坊さんがいました。いつも仏さまの教えを熱心に勉強していました。

 風の強い寒い夜でした。いつものように経典を読んでいると、外から人の泣き声が聞こえて来ました。声を頼りに出て行くと、一人の男が丸裸で震え泣いていました。これを見て自分の着物を脱いで、その男に着せてやると男は「ありがとうございます。けれど、これだけでは足りません。もう一枚着せてください」と言ったので、今度は自分の肌着を脱いで、自分は裸になって着せてあげました。男は次に「あなたのところへ行って火にあたらせてください」と言いました。勝円さんは「いいですよ」と言い、手を引いて連れて行こうとすると「どうか背中に負おうってください」と言うから、男を負んぶして、寺へ帰って来ました。寺に入ると男は「早くこたつをしつらえて、それからあたたかいものを食わせてください」と言いました。勝円さんは、急いで火を起こし、こたつを作り、台所へ行っておかゆを作り始めました。おかゆが出来たので持って行くと、こたつの中にも、部屋の中にも男の姿は見えませんでした。すると本堂から「ここにいるぞ」と声がします。本堂にいくと、仏さまが、自分が脱いで男に着せた着物を着ていました。驚いた勝円さんが仏さまに礼拝[らいはい]すると、仏さまは「あなたの慈悲の心は、とても深いので感心しました。これからも、しっかり仏の教えを学びなさい。あなたは必ず仏になります」といわれました。

 勝円さんは仏さまの心を学び、実践した人でした。

 以前にある方から「慈悲を語るお坊さんはたくさんいるけれど、慈悲のこころを実践しているお坊さんは少ないように感じます」と言われハッとし、恥ずかしく思ったことがありました。

 私たち念仏者は南無阿弥陀仏のお念仏のみ教えを通して仏さまのお慈悲、あたたかい心を頂戴して日暮らししています。勝円さんのようにはなかなかいきませんが、仏さまからいただいたお慈悲、あたたかい心を少しでも周りの人に広げていくことが、お慈悲に生きることと理解し、お互いに出来ることから、ご一緒に実践していきましょう。

 今回の担当は、豊頃町、大正寺、高田芳行でした。

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.「布施をする」という生き方

帯広市 光心寺 桃井直行 (2007年7月後半)

 仏教のイメージというアンケートを見たら、「お葬式」「法事」「盆詣り」など、「死んでからいくところ」というのが多かったように思います。皆さんのイメージはどうですか? 確かに人が亡くなった時に、お坊さんの出番がやってくるのは事実です。

 しかし仏教は「死」のみを問題にしてきたのではありません。むしろ、お釈迦さまの教えは「この現実世界を如何に生きるか」を問い続けたのであります。

 特にお釈迦さまは私たちに「布施をする」という生き方を教えてくださっています。布施というのは、さまざまな施しを実践することです。一般的に布施といえば、財産をお寺に施すことをイメージします。これを「財施(ざいせ)」といいます。また仏さまの教えをひろめることを「法施(ほうせ)」といいます。それともう一つ、金品がなくても、仏教の知識がなくても、誰にでも出来る大切な布施行をお釈迦さまは教えてくださいます。それを「無財の七施(むざいのしちせ)」といいます。それは

いつも 慈しみをたたえた 眼差しと     ほがらかで 柔和な顔色と     礼儀正しく 温かい言葉で語り合い     他人のために 骨身を惜しまず     深い愛情と 敬いの心から     和やかに 席をゆずり合い     安らぎの場所を 供養しましょう

というものです。

 これが、仏法を学ぶものの大切な生活態度ですよと、お釈迦さまは教えてくださいます。しかもその布施の行為は「施しても施したという思いを起こさず、事を成しても成したという思いを起こさない」ものでなくてはならないといいます。

 常に、やさしい眼差しを施しなさい。人に対して決して睨み付けたり冷ややかな目や態度を取ってはいけませんよ。

 とげとげしいイヤな顔はしないように、にこやかに優しく和やかな顔で人に接してくださいね。

 「おはようございます」「ごちそうさまでした」「ありがとうございます」などの優しい、ぬくもりのある言葉を使うように心がけてくださいね。

 気遣いや思いやりの心をもって、ひとに接してください。また、ひとを不愉快な気持ちにさせるような態度をとったりしてはいけませんよ。

 小さい子どもやお年寄りに席を譲ってあげなさいよ。また、ひとが訪ねてきたときに、早く帰れと言わんばかりの態度を取ってはいけませんよ。

 以上の七つが、お釈迦さまが教えてくださる、大切な布施行なのです。決して難しいことではないのですが、なかなか実践することは出来ないことです。特に、俺が・私が「せっかくしてやったのに」という心がすぐに起こってしまう。最初は浄土の心持ちで布施の行為をしていたのに、相手の反応によってはあっという間に地獄の心で相手を切り刻んでしまう。そんな心が私の心なのです。そんな姿が私の正体なのです。そのことを見越してお釈迦さまは「施しても施したという思いを起こすな」とおっしゃいます。

 こんな些細なことさえも、実は私には出来ないことなのですよ、と、お釈迦さまは我々に教えてくださっているのです。

 それでは、お釈迦さまは私に何をすべきとおっしゃるのか? それは、やはり布施をしなさいというのです。何かするとおごりの心をおこし、またすぐにカッとなって怒りの心を起こしてしまう私だけれども、それでも今の私に出来る精一杯のことをさせていただく。布施の一つも出来ない私であったと頷きながら、まねごとでもいいから布施行をさせていただくことこそ、仏法を学ぶものの生き方であります。

 南無阿弥陀仏。

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「一寸先は闇」?

音更町 妙法寺 石田智秀 (2007年8月前半)

 なまんだぶつ、なまんだぶつ。

 「一寸先は闇」と言います。そして、「この世は次の瞬間に何が起こるか分からないから、わたしたちは真実のなんまんだぶつに出遇っていただかなければ大変なことになっていた」と言ったりもします。

 先日、釧路にいたとき、ホテルで夕食後にサッカーの中継を見ていたら、TV画面に津波警報が流れました。「どこで地震があったんだろう? 大変だなあ」と思っていたら、「釧路・根室・オホーツク海側に、1メートルから2メートルの津波警報が出ました」ということでした。「地震がないのに津波が来るのか?」と思い、怖くなりました。

 あわててホテルのフロントに降りて行って「避難しなくて良いのですか?」と聞いてみましたら、「大丈夫ですよ。このホテルそのものが、この地域の避難場所に指定されているんです。お客さんの部屋は三階ですから大丈夫ですよ」というふうに言われて、安心して戻ったんであります。

 そして、その後で、やっと、他のことに気付くんであります。「今日お世話になったあのお寺は大丈夫だろうか? ああ、あそこは高台にある。‥‥じゃあ、明後日お世話になるあのお寺は大丈夫だろうか? ああ、あそこも大分内陸にあるから大丈夫だろう」などなど。

 「一寸先は闇」だから、それでわたくしたち、なんまんだぶつという真実の光に照らされる、そういう生活をすべきなんだ、と言うんでありますけれど、わたしは、自分の身の安全が確保されてそれで初めて、それから他の方の心配をしたのです。

 自分の安全が確保されてからでなければ、他の人のことが心配できない。その心のありようっていうのは、わたしの心そのものが、闇であって、「一寸先は闇」の世界を「闇」そのものが歩いているという姿なのではないかと思いました。

 「一寸先は闇」だから、お念仏に出遇っていただかなければいけないと言います。しかし、それだけではなく、闇が闇の中を歩いているのが、わたしのありようなのです。

 だから、お念仏に出遇っていただかなければならなかったのであります。
 出遇っていただいて、本当に良かった。
 あぶないところでした。

 では、失礼します。

 なまんだぶつ、なまんだぶつ。

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.どちらを向いても仏のふところのなか

芽室町 願恵寺 藤原昇典 (2007年8月後半)

 ずいぶん前に聞いた話ですが、タイ国の子どもたちと日本の子どもたちに同じ質問をしたそうです。質問は「いま欲しいものは何ですか?」でした。

 タイの子どもたちの欲しいもの、第1位は「サッカーのグラウンド」です。理由は、皆で遊べるからだそうです。

 日本の子どもたちの欲しいもの、第1位は「お金・ゲーム」です。理由は、自分のものだからでした。

 どちらが善で、もう片方が悪ということではありませんが、他人事[ひとごと]ではなく考えさせられることでした。

 また、こんな話も聞いたことがあります。

 ある小学校の地域学習で、お寺に来た小学生の質問で、「お寺さん、金ピカの阿弥陀さま、買うといくら?」と。そこの住職さんも驚いたそうです。ご自身も京都や奈良の寺院に小さな頃から行くことがありましたが、仏像がいくらで買えるのか、考えたことがなかったそうです。でも子どもからの質問です。しっかり答えなくてはなりませんので、「あの仏像は、ご本尊といって、本当に尊いものでね、本当に尊いものはお金では買うことが出来ないのです。生きていくためにはお金も大事ですが、本当に尊いものは決してお金では買えません。みんなもお父さんやお母さんは大切でしょう、値段をつけてと言われてもつけられないでしょう。同じなんですよ。いまここに、お父さん・お母さんがいない人がいたらごめんね」という説明をしたそうです。

 自分の考えがいちばん正しい、自分の経験が何よりも尊い、自分のことは自分がいちばんよく知っている、などなど。本当にそうなのでしょうか。

 同じ公園でも、野球をする野球をするには狭いと感じ、石拾いをするには何と広いことかと感じるものです。その時の自分の勝手な都合で、すべてをまともに見ることの出来ない目(心)を持っているこの私が、都合よく考え結論を出し、自分のしている行動のどこに真実があるのでしょうか。

 今年もお盆を迎えました。家族そろって手を合わせる機会があったのでしょうか?

 いま教えを聞き、伝えなければならない私たちの番が来ています。いつか暇になったらとか、まだまだ若いからとか、‥‥いろいろ理由はあるかもしれませんが、お寺の法座にお参りして、私の生きていく正しい方向を聞かせていただきましょう。

 私たちは「どちらを向いても仏のふところ」の中で生かされているのですから。

世間の暇をあけて法を聞くべきように思うこと、あさましきことなり。仏法には明日ということはあるまじきこと

 ‥‥と、蓮如上人は、声を大にしておっしゃっていました。

合掌
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コスモス

浦幌町 太子寺 皆川隆信 (2007年10月後半)

 今から9年前、私は広島のあるお寺に勤めていました。そのお寺の駐車場の脇には、自然に増えていったコスモスが何千と育って、美しい花を咲かせていました。そのコスモスに、日中気温が上がったときには、夕方水をあげることが私の仕事の一つでした。暑い日にぐったりとしているコスモスに水をあげているうちに、だんだんと愛着がわいてきました。元気を取り戻したコスモスたちが、とても喜んでいるように見えたことでした。

 台風が上陸し、二日ほど雨が降り続いたときのことです。雨のおかげで、コスモスは元気にしているだろうと見に行きますと、風が強く、雨が降って地面がゆるんだせいか、百本ぐらいのコスモスが倒れていました。何本か植え直してあげましたが、倒れてしまったコスモス全部を植え直す時間がなかったので、かわいそうだが、枯れてしまってから、かたづけてあげることにしました。

 それから、二日ほどしてから、水をあげているときのことです。

 ふと、倒れているコスモスに目をやると、そのコスモスは枯れていくどころか、きれいな花を咲かせていたのです。見渡してみると枯れてしまったコスモスはどこにもなく、倒れたコスモスの根はちゃんと地面にはり、茎を直角に曲げて、花は太陽の方に向いていたのでした。

 コスモスは、とても強い花です。強い風が吹いて倒れても、大雨が降って倒れても、そこから根をはって、立派に育ち、きれいな花を咲かすのです。

 お釈迦さまは、「人生は苦である」とおっしゃいました。苦しいことや悲しいこと、辛いことの方が多いのが人生であります。人生にも、強い風が吹くときもあれば、激しい雨が降るときもあります。時には突然思いもしないことが起こることもあります。そのとき、逆境に耐え切れず、倒れてしまうこともあるでしょう。しかし、倒れたコスモスのように、あきらめずにそこからはい上がり、強く大きく育ち、実りある人生にしていきたいことです。

 倒れても、きれいな花を咲かせて輝いているコスモスの姿を通して、生きる勇気や力、そして、よろこびを教えてもらった気がいたします。

 親鸞聖人さまは『教行信証』の最後の方に

[よろこ]ばしいかな、心を弘誓[ぐぜい]の仏地に樹[た]て、念を難思の法海に流す。

と、お示しくださっておられます。

 たとえ、倒れてしまっても、地面にしっかりと根をはって、茎を直角に曲げて、太陽に向かって、美しい花を咲かせているコスモスの姿は、このお言葉と重なるものを私は感じます。慶ばしいかな、慶ばしいかなと、今日もコスモスが、いのちを輝かせながら咲いています。

合掌
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.そのままのお救い

音更町 妙法寺 石田秀誠 (2007年12月前半)

 早いものですね。今年も残すところあと少しになりました。私は毎年、年の初めにいくつも目標を持つのですが、出来たものはほんの少しで、がっかりしてしまいます。みんさんはどうでしたか、目標どおりにいきましたか。

 さて、少し前のことですが、帯広別院で、寺院関係者の追悼法要があったとき、ご遺族方を代表してお礼を述べられたご住職さまは、お父さまが生前、ご往生されるほんの何日か前におっしゃられた言葉を紹介してくださいました。それはこういう言葉です。

 「おれもこれからお坊さんになるのだったら、少しはまともなお坊さんになれただろうなあ‥‥」

 ‥‥このご住職さまは、お父さまを偲びつつ、この言葉を大切に考えていきたい、‥‥とおっしゃって、お礼のご挨拶を締めくくられたのであります。

 経験を積んだ今だから、逆にそのように正直に、素直に言えることなのだろうな、そしてまた、私も正直にそう思えたら本当に良いだろうなあとお聞かせいただいたことです。

 今日[こんにち]の世相を見ますと、考えられないような痛ましいことが毎日起こっています。このようになってから、ため息をついたり嘆いたりしても遅いのかもしれません。その前からずうっと、他人を傷つけたり、悲しませたり、害したりして、悪いことをしたら必ず地獄に堕ちるのだ、と、厳しく言うことが大切だったのかもしれません。

 でも、それならば、悪いことをしなければよいわけですが、人間は、悲しいことに、悪いことをしてはならないと知りながらも、生きるためには悪をかさねねば生きられない身であります。そういう私と知らされたとき、このような、地獄に堕ちると定まった者をお救いくださる如来さまのご本願のありがた尊さよと味わう世界がひらかれ、如来さまのお慈悲が強く感じられてまいるのであります。

 悪いことを殊更にしなくても、するつもりがなくても、私の毎日の生活そのものが、むしろ本当の意味での地獄をつくりつつあることを知らされることが大切です。

 地獄を作りつつあるどうしようもない私が、そのまま救われるのです。ただ「そのまま救う」とは如来さまの仰せであって、私が「このまま救われる」と勝手にきめつけるものではありません。

 悪をせずには生きられないという事実を知らされ、なげきかなしみつつ逆にそのことこそ救いのたしかな称呼である不思議さを思い、日々お念仏申しながら生きるのが念仏者の生活であります。

 残された一日いちにちを大切に生かさせていただきたいものです。


なまんだぶつ。
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