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(法話タイトル) | (地域) | (所属寺) | (氏名) | (年・月) |
年頭のご挨拶 | 帯広市 | 帯広別院 | 中田周敬 | 2015.1 |
悪人正機 | 幕別町 忠類 | 東光寺 | 豊田信英 | 2015.1 |
「今このとき」を生きる | 足寄町 | 照経寺 | 鷲岡佑照 | 2015.2 |
願いをかけられた人生 | 音更町 下士幌 | 浄信寺 | 御幸誓見 | 2015.2 |
3つの命 | 広尾町 | 光音寺 | 頼田亨 | 2015.3 |
経は鏡のごとし | 帯広市 | 仏照寺 | 藤本実円 | 2015.5 |
馬の耳にも念仏 | 浦幌町 上厚内 | 太子寺 | 皆川隆信 | 2015.5 |
聞こえぬ声 | 音更町 下士幌 | 浄信寺 | 窪寺貴洋 | 2015.6 |
ご縁 無量のわたしのいのち | 幕別町 札内 | 義教寺 | 梅原真依子 | 2015.7 |
おそなえの意味 | 清水町 熊牛 | 寿光寺 | 増山孝伸 | 2015.8 |
娑婆の命の意味 | 大樹町 | 誓願寺 | 頓宮彰玄 | 2015.9 |
〈我がこと〉として | 広尾町 | 光音寺 | 頼田光明 | 2015.9 |
再び会える世界 | 中札内村 | 法念寺 | 加藤淳司 | 2015.10 |
一人じゃない | 陸別町 | 本證寺 | 平林暁仁 | 2015.10 |
身の内には わるだくみ が満ちています | 新得町 | 新泉寺 | 髙久教仁 | 2015.11 |
本願力ニアヒヌレバ | 清水町 熊牛 | 寿光寺 | 増山誓史 | 2015.11 |
私にとっての報恩講 | 清水町 屈足 | 立教寺 | 千葉照映 | 2015.12 |
今日1日が私のいのちである。今日1日どう生きるか | 大樹町 | 光教寺 | 岩﨑教之 | 2015.12 |
十勝組.com にもどる ご法話 にもどる |
慈光照護のもと、皆さまには、健やかに、新年をお迎えのことととお慶び申し上げます。
昨年、本願寺では6月6日に第25代・専如ご門主が法統を継承されました。即如前ご門主は、昭和52年に法統を継承されてから37年の長きにわたり、第24代ご門主としてご教導をいただきました。
「法統継承に際しての消息」にご門主は「本願念仏のご法義は時代や社会が変化しても変わることがありませんが、ご法義の伝え方は、その変化につれて変わっていかねばならないでしょう」とお示しになりました。
現代は科学・技術の発達の中で、混迷を深めている社会であります。混迷とは、混沌としてわけのわからないこと、混乱して見通しがつかないことと辞書にあります。今、何をたよりに、何をよりどころにいきていくか、いのち終わったとき、どこに帰っていくのか、ということを問うていかねばなりません。この人生の行くところが定まるから落ち着くことができる。いつ、どこで、どのようなことに出遭うても、力強く生き抜いていかねばなりません。
親鸞聖人は生きていく力を「まこと」だと教えてくださるのです。「まこと」とはどのようなことがあっても変わることなく、私の人生を支えてくださるものということです。他人がどのような目で見ようが、どのように中傷しようが、「私はあなたを見捨てることはありません」。どこまでも私を支え続けてくれるものがまことであります。
親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもっと、そらごと、たわごと、まことあることなきに、念仏のみぞまこと」と教えられました。「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てない」と呼び続けてくださるのが南無阿弥陀仏の念仏の み教えであると、明らかにしてくださいました。
脈々と受け継がれてきた本願念仏のご法義が次世代へと伝えられ、自他ともに心豊かに生きることの出来る社会の実現に向けて、新たな始まりとして、歩んでいくことを念じます。
本日は、悪人正機についてお話しさせていただきたいと思います。
悪人正機とは、「阿弥陀さまの救いは悪人のためにある」ということです。『歎異抄』に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」との親鸞聖人のお言葉があります。善人でさえ救われるのであれば、まして悪人が救われるのは当然のことである、という意味です。ここでの「善人」とは、「努力次第で人生は開かれていく」と、自己の力を頼みにする人のことです。「悪人」とは、地力を肯定する心にひそむ、うぬぼれやおごりの心に気がついた人と言っていいでしょう。
私たちは、人生が失敗もなく順調に進んでいる間は自己を過信し、他を批判しております。しかし、ひとたび逆風がふけば、自己の無力さ、自力の有限性を知らされます。逆風とは、愛する者との突然の死別であったり、老いや病気、あるいは信頼していた者との関係崩壊などです。私たちは逆風のない人生、永遠の幸せを望みますが、諸行無常の世に生きる限り、逆風は必ず吹きます。
私たちの本当の姿とは煩悩だらけの身であるということです。欲と怒りと愚痴で毎日を過ごし、善いことをすればいつまでもそれを手柄として持ち続け、怨みやねたむ心を正当化しながら生きている。そんな自己を姿を発見するとき、私たちは善人などとはほど遠い、悪人としてしか生きようのない私であったと自覚するのです。
親鸞聖人は、そんな悪人として行き続ける私のために阿弥陀さまの願いがあると断言されたのです。『教行信証』には『涅槃経』の言葉を引用されております。「親の愛は、どの子に対しても平等であるが、病気になった子がいれば、親の愛はひとえにその子に注がれる。仏・如来も同じである。如来は衆生に対して平等の慈悲を持つが、罪なる者において、ひとえに深い慈悲心を注ぐのである」と。
このように、悪人である私たちをこそ、救わずにおれない、必ず救うと呼びかけてくださる阿弥陀さまのご恩に感謝し、お念仏を申させていただきながら日暮らしをさせていただきましょう。
「光陰矢のごとし」とは昔から申しますが、今年ももうひと月が過ぎ、2月になりました。ご門徒の皆さんと話していると、「もう2月だなんて信じられない」だとか、「1年はあっという間だから、次のお正月ももうすぐにでも来てしまうのではないか」なんてことをしみじみ語られる方もいらっしゃいます。
私自身のことを省みても、お正月の忙しさの中でいつの間にやら1月が終わってしまい、やりたくても出来なかったことを思い出しては後悔したり、もう今年の12分の1が終わってしまったことに焦りを感じたりしているところです。
「忙しい」という漢字は「心」を「亡くす」と書きますが、忙しければ焦りから本当に大切なことを忘れてしまいがちですよね。一方で、忙しくなければそれはそれで油断して夢見がちなことばかりを思っては本当に大切なことを忘れてしまい、そうして「あっという間に」「いつの間にやら」今日という日が過ぎ去ってしまう、それが私たち「凡夫」というものではないでしょうか。
しかし、そのように「今このとき」を疎(おろそ)かにした生き方をしてはいけないと、仏教は教えてくれます。
蓮如上人は、「仏法に明日と申すことはあるまじく候ふ」というお言葉をのこしてくださいました。この言葉は、「今日という日」「今このとき」しか、大切なことに目覚める時間はありませんよ、とお勧めくださっているのです。
昨日という日はもう来ませんし、変えられません。明日という日はまだ来ませんし、何が起こるかわかりません。私たちが生きて何かをすることができるのは、常に「今日」という日だけなのです。
また、お念仏の み教えは、まさに「今このとき」のお救いにあずかる み教えです。思い通りにならない「今このとき」を生きる私を、今まさに抱きとめて決して捨てないのが、阿弥陀如来という仏さまでございました。。そして、その仏さまが今まさに私に呼びかけてくださっている声が、「南無阿弥陀仏」のお念仏でした。
あっという間に過ぎてしまうのが歳月というものですが、ただそれを嘆いたり焦ったりするのではなく、阿弥陀さまのはたらきの中にある「今このとき」にお念仏を通して気付かせていただき、大雪にしていきたいものであります。
2月も半ばになりますと、日差しもだんだんと暖かくなってくるような気がいたします。今年の冬は暖冬の予想ではありましたが、わがお寺ではマイナス25℃を下回った日が何日かありました。でも酷寒も過ぎてしまい、この頃の陽気になると、そんなこともあったのかと忘れてしまいそうです。
さて、この頃になると、知り合いの子ども、お檀家さんの子どもたちの受験シーズンが始まります。自分の遠い子どもの頃をを思い出し、結果が出るまでの不安な気持ちを思い出し、懐かしく、またその子たちの気持ちに思いを寄せます。こんな気持ちでいられるのも同じような経験を昔にしてきた年齢になったからかもしれません。自分自身が世間で言う高齢者になりましたので。
ところで、世の中には元気な高齢の方もたくさんいらっしゃいますが、老いの苦労、それに伴う心の心配を抱えている方も大勢いらっしゃいます。お檀家さんのお参りの時にお話をされる方がいかに多いかです。
経験したことには多少の余裕をもって対応できますが、初めてのことには不安でしょうがないのです。自分でも多少の知識は持っているつもりでもその通りです。
子どもの不安、老人の不安に問題の違いがあってもこころの落ち着きがないことは変わりないでしょう。そしてそのことに、回りの助言や手助けがあっても、あくまで経験していくのは自分自身でしかないのです
なんまんだぶ、漢字で書くと「南無阿弥陀仏」。「南無」とは「すべておまかせいたします」と教えていただいております。「阿弥陀さまの願いにお任せします」の人生です。そのままを受け取ってくれることを誓ってくれた願いを生きる人生です。
「オギャー!」と生まれたときに親からいろいろな願いをかけて名付けられ、阿弥陀さまからの願いをかけられて生きている人生です。
日々、年齢と関係なく、様々な心配、不安なことに直面しますが、どれもすべて自分自身で経験してゆかねばならないのならば、今一度、私のこの人生は、親をはじめ、いろいろな人々、仏さまに願いをかけられた命を生きていることを原点に、歩み続き始めましょう。
今日のお話は、3つの命を皆さまと一緒に味わってみたいのです。
今、現代でいろいろな命が問われているように思うのです。その中で、すぐ思いつくのが子どもたちなどの幼い命、そして青年たちの若い命、老いた人の命。でも私たちには別の3つの命がありそうな気がするのです。その3つは、過去の失った命であり、今、私の命であり、次にこれから生まれてくる命なのではないでしょうか。過去に失った命があった。あったからこそ今の私自身の命があり、今、私の命があることが、次の新しい命の元になっていると思うのです。
しかし、今、孤立・自殺・家庭内殺人など命が軽視されているのではないでしょうか。最近、葬儀なども家族葬などと、人と人との絆を切っていく風潮が多くなっていますが、私たち一人ひとりが孤立の元を作っているのではないのでしょうか。命の手つぎがなければ一つひとつの命は存在しないのではないでしょうか。
「生きて不思議 死んで当たり前」
そんな生身の命を皆んなが持っているのに、人がバラバラになれば孤立していくのは当たり前ではないでしょうか。
仏さまは、念仏には、過去の命も、今の命も、未来の命も、すべて念仏にこめられていると言われているのです。今、私たち自身が孤立しないよう、人と人との縁を大切にしたいものです。
今回は、皆さまと一緒に、三つの命を味わうことができて、ありがたいご縁であったと思います。
おとぎ話の主人公が3人登場した携帯電話のコマーシャルがお茶の間を賑わせているようですが、生まれた世代によっては人気の俳優が3人揃って面白いことをしてると見ているようですが、今日は腰に魚籠(びく)と腰ミノを着けている浦島太郎の話をしましょう。
浜辺でいじめられていた亀を助けたお返しに竜宮城での楽しい生活をしていた浦島太郎ですが、急に乙姫さまに帰ることを告げ、もといた村に帰ってみると、すれ違う人も誰一人として知らないほど、村自体が変わり果ててしまい、開けてはなりませんよと音姫さまに渡された玉手箱を開けてしまい、中からパッと白い煙が出て、たちまち太郎はおじいさん。とおとぎ話が結ばれます。限られた時間を遊びほうけて、空しく過ごしてしまった太郎でありました。物語にはそこまで書かれてはいませんが、玉手箱から煙が出たということは、何かが中で燃えていたのでしょう。一体何が燃えたかというと、これさえあれば安心して過ごせるものです。貯金通帳に印鑑。土地と住宅。お金がなければ食べることすら、すぐに不自由になります。それから、家族がいなければ安心して暮らしてゆけません。その一つが当てにならず一瞬にして煙になってしまったのです。
これさえあれば私は大丈夫と思い込んでいたものが燃えてしまい、玉手箱の奥底にはめ込んであった鏡に太郎は自分自身の命の有りさまが映し出されて本当の姿に出会うことができたのでした。
親鸞聖人がご尊敬された七高僧の中の善導大師が『観無量寿経』を注釈された『観経疏』の中に
「経・教はこれを喩(たと)ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発(かいほつ)す」(註釈版聖典七祖篇 P.387)
とおっしゃっています。まさしく、お釈迦さまの教え・お経は亡くなった方に読むものではなく、私自身の姿をありのままに映してくださり、今をより良く歩ませてくださる鏡のようなものです。
あのコマーシャルを改めてご覧いただくと、また、違った味わいが湧いてくると思います。
新緑のさわやかな季節となりました。皆さま、いかがお過ごしですか。
最近、父親が高齢のせいか、同じ事をくどくどと言って来ます。「はい、はい、わかっています」と答えていますが、心の中では「同じようなことを何度も言って、しつこくてイライラしてしまうよ」と思ってしまいます。何度も同じことを言われると、まったく信用されていないのだろうかと不審に思い、会話することでさえ避けたくなります。父親は確認の意味で同じことを言い、私のことを心配しているのでしょうが、父親の言葉は、わたしには「馬の耳に念仏」であります。
「馬の耳に念仏」とは、馬に念仏を聞かせても、そのありがたみがわからないことから、人の意見や忠告に耳を貸そうとせず、少しも効果がないことです。確かに、このことわざは、馬にとってはお念仏がわからないから一見むだのように感じます。しかし、お念仏がわからなくても、間違いなく耳にはお念仏が届き、お念仏のご縁に出遇(であ)っているということは、実にありがたいことだと思います。私は、たとえ馬のようにお念仏がわからなくても、むしろわからないからこそ、阿弥陀さまのおこころがそのまま素直に「私の耳にもお念仏」が至り届き、そのわからない私のことをよくわかっていらっしゃる阿弥陀さまが、いつでもどこでも今ここにお念仏となってはたらいておられるのです。
大聖(だいしょう)易往(いおう)とときたまふ
浄土をうたがふ衆生をば
無眼人(むげんにん)とぞなづけたる
無耳人(むににん)とぞのべたまふ
と、親鸞聖人は言われました。自己中心の私の都合によって、阿弥陀さまのおこころを疑い、見えながらも見ようとしない人を「無眼人」(むげんにん)と言い、聞こえながらも聞くことをしない人を「無耳人」(むににん)と言うのです。阿弥陀さまは、無眼人・無耳人であるこの私をすでに見抜いて、だからこそ救わずにはおられないと願いのすべてを南無阿弥陀仏の六字に込めて、阿弥陀さまの方から大悲のおこころで今ここでこの私に至り届けてくださっているのです。阿弥陀さまのお心を頂き、感謝のお念仏とともに日暮らしをさせていただきましょう。
ようこそお電話をくださいました。十勝組テレホン法話でございます。
だんだんと暖かい時間帯が増えてきたかなと思えば、夜には気温が1ケタになるという、なんとも体調を管理するのが大変な日々が続いております。
そんな中、6月になると各学校では運動会が賑やかに開催されているのをよく見かけますが、いつの時代も子どもたちの活発に動く姿には、時に笑いあり、時に感動ありと、大変心を豊かにしてもらえるものです。運動会に限らず、いろいろなスポーツでもさまざまな感動を我々に与えてくれます。
1ヵ月ほど前に、子どもが出場する水泳大会の観戦に行ったときのことです。
出場選手や観客の方々、各チームのコーチ等々で会場はなかなかの混雑でした。観客席に座って見ることすらままならない状況の中、子どもの種目が終わり、次の種目まで多少の時間はあったものの、1度場所をずれてしまうとすぐにその場所も埋まってしまいそうでしたので、同じ場所で見続けていたところ、私のすぐそばに小学校4・5年生くらいの男の子5人が私と同じように立ったまま観戦しており、全員同じチームに所属しているのか、おそろいのジャージに身をつつみ、何やら楽しそうに会話をしていました。
と、次の瞬間、その5人が一斉にプールの方に向かって「○○! がんばれー!」と会場内に響き渡るほどの大きな声で、同じチームの出場選手の応援を始めたのです。
どの種目もスタート直前は静まりかえり、スタートの合図とともにまた会場内は歓声に包まれます。その5人も少しの静寂の後、また大きな声で応援をし続けていました。
当然、応援を受けている本人は懸命に水の中で泳いでいるため、その5人の声は聞こえているはずもありません。実際には、自分たちの声など聞こえないことはわかっていながらでも大声援を続ける5人の仲間たち。この子どもながらの純粋な気持ちからの行動を見て感動を覚えながらもふとこんなことを思いました。
自分のために誰かが声を掛け続けてくれているということは、人であれば誰しも大変嬉しく元気づけられるものではないでしょうか。
声を掛け続けてくれていることに、気付こうが気付くまいが、常に私たちには常にお声を掛けてくださる仏さまがいらっしゃいます。「我に任せよ、我が名を呼べよ、必ず救うぞ:と、絶え間なく、すべての人々に呼びかけてくださっております。それが阿弥陀さまであります。
阿弥陀さまが発(おこ)された48の願い、その願いの根本である第18の願は、「われにまかせよ、わが名を称(とな)えよ、浄土に生まれさせて仏にならしめん」という願いであると親鸞聖人はおっしゃっております。
この阿弥陀さまの絶えず私を救わんがために寄り添っておっしゃってくださっている「聞こえぬ声」のありがたさ、ただただお任せをしてお念仏を申しつつ、如来の大悲に抱かれて、お浄土への道を歩ませていただくということに尽きるのではないでしょうか。
実際には耳で聞くことの出来ない声ほど、大変嬉しく大変ありがたいものなのかもしれません。
お電話ありがとうございます。このたびは、「ご縁 無量のわたしのいのち」と題してお話しさせていただきたく思います。
最近、ご法事にお伺いすると、若い方々がいらっしゃらないことがあります。お住まいが遠い、仕事を休むのが難しい、等の理由とのことですが、とても寂しく思います。
ともに過ごした時間が短く記憶にない方や、直接お会いしたことがない歴代の方々のご法事であると、他のことを優先したい気持ちになることもあるかとは思います。しかし、本当にそれで良いのでしょうか。あなたのいのちがなぜここで生かされているのか。それは、たとえあなたが知らなくとも、数えきれないほどのご縁ひとつひとつ、そして、いのちつながれて、かけがえのないあなたがここにいるのです。ご法事は、あなたのいのちを見つめ、受けとめる大切なご縁であります。まったく関係ない思えることでさえも、すべてあなたのいのちの一部であることを心に刻み、み教えに出遇う大切な時間を感謝の内にお過ごしいただければと願います。
生きていく上ですべきことは山ほどあるでしょう。他に後れを取らないようにと心に余裕を持てずに過ごすこともあるのではないかと思います。
七高僧のお一人である善導大師の『往生礼讃』に、
人は営みしげくして、
日ごと夜ごとに
そのいのち滅び去るをも覚り得ず、
風にゆらるる灯しびの、
消えなんとするごとくなり
とあります。
日々の営みに囚われ過ぎて、生死無常のことわりであること、つまり、先の保証のない風の中の灯のような危ういいのちであるということを幾度となく知らしめられても、なお受け止め難いのがこの私です。
きづかなくとも知らぬとも、あなたのいのちは歩むごとに多くのご縁をつないでいきます。真実の み教えを心のよりどころとしながら、大切に歩んでいきたいものです。
十勝組テレホン法話へ、ようこそ、お電話くださいました。今回は、清水町 熊牛 寿光寺 増山孝伸がお話をさせていただきます。
お盆の時期、お墓や納骨堂のお参りに行かれた方がたくさんおられることと思います。お仏壇にも賑やかにお供えをそなえられたことでしょう。
お仏壇には水物を供える。これは世間の常識と言っていいと思います。お茶やコーヒー、ジュースなども同じですが、故人の好きだった飲み物を「あの世でのどが乾かないように」との思いで多くの方がせっせとお給仕していることと思います。
ところが、この、ごく当たり前の行為を浄土真宗では「必要がない」と教えています。
その理由は、故人がお生まれになった極楽浄土の情景を説いた『仏説阿弥陀経』に「極楽浄土には、七種の宝石からできている池がある。池の中には、八つの特性ある水が充満し、池の底は、一面に金の砂で敷きつめられている」と、書かれているからです。如来さまのお浄土には「八功徳水」(はっくどくすい)という特上のお水がふんだんに湧き出ているというのです。仏さまはその素晴らしい水に囲まれ、それをいつでも口にできるというのですから、おのずと答は決まってきます。つまり、お浄土の世界をあらわしているお仏壇には、水道水など供える必要がないわけです。また「あの世でのどが乾かないように」という行為は、故人への供養の意味合いが濃く、如来さまのお心にはしわないのです。ですから、浄土真宗では「故人に飲んでいただく」というような水の供え方はしないのです。
しかし故人の生前好きだったお茶やコーヒーを仏壇に供えるのは人間の心情として当然のことです。もしお供えする場合は、生前好きであった飲物を縁として私が故人を偲ぶためにお供えするものと理解してください。
お供えとは、亡くなった方への供養ではなく、この私が多くのお恵みにより生かされていることに対する、感謝の気持ちのあらわれがお供えです。
娑婆何十年と生きてまいりますと、娑婆の命のさまざまな生き死にの姿に出会うてゆくわけでございます。死の縁無量、老若男女を問わす、どう説明し、どう納得したらいいのか、受け止め難い中に身を置いていくこともあるでしょう。
私どもが今、ここに頂いております娑婆の命の意味をおたずねいたしますと、一つは、一人の人間がここにいるということは、親が生きた歴史があり、じいちゃんばあちゃんが生きた歴史があり、3代前、4代前、5代前と、ずっとさかのぼってまいりますと、多くの先祖の娑婆何十年と生きた歴史があって、不思議としか言いようのないご因縁の中で、ひとり一人の命が、今、与えられてきたということであります。
もう一つ、今日一日、明日一日の、この命が与えられてきたということは、食べ物を頂くといいますが、これは物ではなく命を頂いているわけですから、もう数えられない、無数の命の犠牲の上に、今日一日、明日一日の命が与えられてきたということ、そこに深く思いを致す時、手を合わせていくということを大事にしてまいりたい、忘れてはならないわけでございます。
また、善が善、悪が悪、頑張った者が頑張った通りの報いを受けていくというならわかる、説明も納得もできるんですが、娑婆という場所は、時折、そういう説明では説明の出来ないことが起こります。善が善の報いを受けていないような、悪が悪の報いを受けていかないような、頑張った者が頑張った通りの報いを受けていかないような、いわゆる「娑婆の不条理」という中に、この身が晒されてまいりました時に、どこにも持っていきようのない思いを抱えながら、一人、この身を震わせて耐え忍んで生きていかなければならない、そういう場所。それを「忍土」(にんど)と言い、「娑婆」と言うのだと教えてくださるわけでございます。
しかし、その耐え忍んでいくその場所にこそ、故(な)き人の命が、仏さまの命が、仏事・仏縁を通してはたらいてくださって、命の奥底に眠っております。「生まれながらの願い」、人間という命の境界に生まれさせて頂いた意味と目的、命の本懐に目覚めよ、目覚めよと、喚(よ)び覚まされていく、導かれていく。
そこにこそ、親鸞聖人が90年のご生涯を通して遺された、娑婆に身を置きながら歩ませて頂く仏の道がある。その道を命の道標(みちしるべ)として、ご一緒に歩ませて頂きたいと念じます。
十勝組テレホン法話にお電話いただき、ありがとうございます。
先日、あるご門徒のお宅にお参りに行った時、「若さん、最近ニュースを見ても新聞を読んでも暗い話ばかりで参ってしまいますね。」とおっしゃる方がいました。
確かに最近は人が人を殺したり、騙し騙されたとか、悲惨な事故のニュースが溢れています。それらばかりに目がいってしまうと、やはり参ってしまいます。しかし、新聞の隅々まで目を通すと、大切な物を落として困っていたが、親切な方が交番に届けてくれていて助かったとか、スポーツの日本代表チームが活躍したとか、ある企業の売上高が前年比を超えたなど、嬉しいニュースも報じられています。
しかし暗いニュースばかりだと感じてしまうのは、これらの小さな喜びのニュースを「我がこと」として喜べない私であるから、喜ばしいニュースに気付けないのではないでしょうか。確かに、どこかの企業が儲かったと聞いても私の懐が豊かになる訳ではないですからね。逆に悲しいニュースを「我がこと」ととして受け入れる事が簡単にできるでしょうか。その悲しみを私のこととして悲しむことができるでしょうか。
そう考えると、どちらのニュースも「私には関係ない」と思ってしまい、自分中心の物の見方しか出来ない自分に気付かされます。しかし縁に触れれば、目立つ悲しいニュースの中心に自分が立たされるかもしれないのです。そのことを先送りにして目をそらせ、自分中心な考え、物の見方しか出来ない私のことを親鸞聖人は「邪見■【小喬】慢の悪衆生」(じゃけん・きょうまんのあくしゅじょう)と戒められます。
親鸞聖人は『正信偈』の中で、そんな私は阿弥陀さまのお慈悲が私に届いてくださっているということも素直に受け入れられず、聞かせてもらってもすぐ別のことに気をとられてしまい、信じることは難しいことの中でも最も難しいと教えてくださいました。しかし、阿弥陀さまのお慈悲は、そんな私を見捨てることが出来ない、むしろ危なっかしいから目が離せないと、常に私に寄り添ってくださっているのです。
嬉しいこと、喜ばしいことにはなかなか気付けないと申しましたが、阿弥陀さまのお慈悲、南無阿弥陀仏のお念仏が届いてくださっているということを「我がこと」として受け、私のための喜ばしいことと頂いてゆきたいです。
いつでもどこでも寄り添ってくださるお慈悲は、嬉しいとき、喜ばしいときだけでなく、悲しくつらい時も常に私を見捨てられないとおはたらきくださいます。嬉しいときも悲しいときも私のためのお慈悲であったと、お念仏申させて頂きたいです。
このたびのご縁は、広尾町・光音寺若院、頼田光明が頂きました。お電話ありがとうございました。
十勝組テレホン法話へようこそ、お電話くださいました。寒暖の差が激しく、体調を崩しやすい日々が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
「亡き人をあんずる私を 仏さまがあんじている」、または「亡き人をあんずる私が 亡き人からあんぜられている」という言葉があります。
私たちは、大切な人、親しい人など、関係が深かった人が亡くなられた後に、その人のことを色々と思い出し、元気な時にもっと何かしてあげられることはなかったかなどと考え、思いにふける時間を過ごすことがあるのではないでしょうか。看病している時に、自分ではできることをしていたつもりでも、やはりもっと何か出来たのではないかと自分に問いかけ、故人に話しかける、……そんなことはないでしょうか。
そんな時に、先の言葉「亡き人をあんずる私が 亡き人からあんぜあっれている 仏さまがあんじている」という言葉を思い出してほしいのです。
個人・仏さまから、「私は人として命は終わりを遂げたけど、あなたはまだ人として命を生きているんですよ いつ終わるかわからない命をしっかり生きてください 限りある命だからこそ 自分の命を見つめる時間 仏法のご縁を大切にしてください」と声をかけられていると受け取らせていただくことなのです。
「仏法のご縁をいただき 如来のお心にふれ 念仏の教えに出会うことを」亡くなられた方が仏(ほとけ)として私たちにはたらきかけてくださっているのです。
お念仏の教えに出会うことにより、倶会一処(くえいっしょ)の世界、つまり、私の今生(こんじょう)の命が終わりを遂げたときに、お浄土で、先に往生された方々にもう一度会う世界がそこにあるのだと、……故人のことを思い出し、くよくよと悲しんでばかりいる私を、お浄土より仏(ほとけ)となり導いてくれているのです。
限りある命だからこそ、いつまであるかわからない人としての命を、しっかり生き抜くようにと、故人を思い出したときに、私に対してはたらきかけてくださっているのだと受け取らせていただくことが、人の死を自分の中にしっかりと受け止めることになるのです。
先に亡くなられた多くの方々とのお浄土での再会を楽しみに、お念仏の教えを聞かせていただくことが喜びとなりますように……。
つい先日、ラグビーのW杯で皆さんも熱い思いを共にしたでしょうか? 素晴らしい試合だったと思います。
ラグビーのチームプレイ精神を表す時によく使われる有名な言葉があります。
ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン。
一人は皆のために、皆は一人のために
と、格言のようになっていますが、フランスの作家が書かれた『三銃士』という小説が元だとも言われています。
しかし、ラグビー日本チームの元監督である平尾氏によれば、間違って伝えられているそうです。本来は「一人は皆のために、皆は勝利のために」であると言われました。
勝ち負けの世界の言葉ですので、どちらが正しいかはさておき、この言葉、私には「決して一人じゃないぞ!」と、力強く、心強く聞こえます。
本当の強さとは、いったい何でしょう?
単に「勝つこと」でしょうか? 力でねじ伏せることでしょうか?
人生を力強く生きるということを考えたときには、勝ち負けではなく、今をどう生きているかが大事なのではないでしょうか。
決して避けて通ることのできない「生・老・病・死」(しょう・ろう・びょう・し)という四苦(しく)の現実の中で、自分はいつも一人で生き抜いて来たという人は、一人としていないはずです。「自分との戦い」と思っていたものが、いつのまにか「自分だけの戦い」になってまっていませんか?
今をどう生き抜かせていただいているか? 決して「一人ではない」と気付かされた時、甘やかすでもなく、負けるでもなく、諦めるでもなく……
阿弥陀如来は、お浄土にとどまっているのではなく、いつも私のために、休むことなくはたらきかけてくださっています。そのはたらきの相(すがた)が、私の口から「南無阿弥陀仏」とこぼれ出てくださっています。
こぼれ出た「南無阿弥陀仏」は、「決して一人には出来ない、捨てておくことが出来ない」という阿弥陀さまの願い・誓いが、言葉となって現れ出てくださったものです。
私の口から「南無阿弥陀仏」と出てくださるたびに、私は決して一人ではなかったと、気付かせていただき、ありがとうと言える人生と、……人間だからできる、許すことのできる強さを持ち合わせて、今を精一杯に生き抜かせていただきたいと思います。
お釈迦さまは私たちに、このシャバを生きる、つまり 老・病・死 を生きるにおいて、苦悩から逃れることのできないこの身だからこそ、その限りのある命の上で、仏さまの教えの まこと を聞くという大きな幸せに遇うことができる、とお説きくだされました。
その み教え は、インドから中国、そして日本へと、真実の七高僧さまが受け伝えてくださり、ついに親鸞聖人がこれを浄土真宗としてお示しくださいました。そして多くの念仏者や父母(ちちはは)を通じてこのわたしに届けられました。
親鸞聖人がお示しくだされた、お釈迦さまの真実の み教え こそ、阿弥陀如来のご本願、南無阿弥陀仏のお念仏であります。親鸞聖人は、その著述、ご和讃の中で、
浄土真宗に帰依するけれども
なかなか仏の真実の心は持ちにくいものです
いつもうそでかためたわが身には
清い心というものはまったくありません
誰もがうわべは善人らしく
人のために一生懸命やっているように見せますが
実のところは貪(むさぼ)り・怒り・偽りの心が多く
身の内にはわるだくみが満ちています
悪い性根(しょうね)がどうにもならず
心はいつも へび や さそり のように
“善い行い”といっても“何々してやった”という毒がまじるので
所詮(しょせん)はいつわりの行(おこな)いとなるのです
恥知らず、浅ましい身で
誠の心はないけれども
阿弥陀如来の回向をいただけば
功徳は十方に満ち満ちています (現代語訳)
浄土真宗に帰(き)すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけ・ふじつ)のわが身にて
清浄(しょうじょう)の心もさらになし
外儀(げぎ)のすがたはひとごとに
賢善精進(けんぜんしょうじん)現ぜしむ
貪瞋邪偽(とん・しん・じゃ・ぎ)おほきゆゑ
奸詐(かんさ)ももはし身にみてり
悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる
無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀(みだ)の回向(えこう)の御名(みな)なれば
功徳(くどく)は十方(じっぽう)にみちたまふ (正像末和讃 悲歎述懐讃)
とおっしゃっています。
まことに阿弥陀如来は、この息絶えるまで“私の都合”という我欲・エゴからはなれることができない 地獄・餓鬼・畜生 の私のために現れてくださった光の仏さまであります。何をどうしようともそのおろかさはどしようもならず嘆きのうちに滅びようとする私を抱(いだ)きとるためにいつもおそばにお立ちくださっている、大きないのちの仏さまであります。
ですから、浄土真宗に帰依するものは、“南無阿弥陀仏”とお念仏にこめられた果てしのない阿弥陀如来の悲願(ひがん)を聞いて、たえず自らの歩いてきた道を謙虚に省(かえり)み、「人」と生まれさませていただいた真の喜びを見出して、朝な夕なに、経典や、親鸞聖人のお言葉をいただき、お念仏申して、常に“浄土”という「ともにそれぞれのいのちを認め合うことができる真実世界」を目指し、力強くこのシャバを生き抜いてまいりましょう。
昨年の末に、寿光寺第二世住職であります父が、お浄土に還らせていただきました。早いもので、もうすぐ一周忌を迎えることになります。「本当に、もうすぐ一年になるのだな」と思いながら過ごしている今日このごろです。
お釈迦さまがお説きになられたお説法の中に、愛する人と別れていかなければならない「愛別離苦」(あいべつりく)という教えがございます。ことあるごとに聞いてきた言葉ではありますが、本当に、しみじみと受け止めさせていただきました。どんなに大切な人であっても必ず別れていかなければならない命を、私は今生きているのです。生まれて来る時は、たった一人、この世のご縁が尽きていく時も、たった一人なのです。しかし、人間に生まれ人としての命を生かさせていただくその間に、多くの人たちに出遇い、さまざまなご縁に恵まれてこの娑婆(しゃば)世界を過ごしていくわけです。自分の都合ばかりが先に立ち、欲と煩悩にふりまわされた人生に、ふと空しさを感じながらも、なかなかその中から抜け出すことができずにいることが多いのではないでしょうか。人との出会いにしてみても、会うことがとても楽しみに思える人もいれば、あまり会いたくないけれど、仕事や都合でどうしても会わなくてはならないと思うような人もおります。会いたくない人と会わなければいけない苦しみをお釈迦さまは「怨憎会苦」(おんぞうえく)とお示しになれています。
私が人間に生まれた時にしか出遇うことのできない大事なものとはいったなんなのでしょうか。それは仏法に出遇うことであり、阿弥陀仏の名号(みょうごう)のいわれを聞かせていただくことなのです。親鸞聖人はご和讃(わさん)に
本願力ニアヒヌレバ
ムナシクスグルヒトゾナキ
功徳ノ宝海ミチミチテ
煩悩ノ濁水ヘダテナシ(高僧和讃 天親讃)
(本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩ノ水であっても何の分け隔てもない。)
(現代語訳)
とお示しになられています。
人間に生まれ煩悩に振り回されて生きている私が、阿弥陀さまのご本願に照らされた時、煩悩を抱えたそのままで救われていく世界があるのだということなのです。お念仏に出遇い、仏縁に恵まれ育まれた私は、光に包まれた御恩報謝の人生を歩んでいくことができるのです。
ようこそお電話くださいました。十勝組テレホン法話でございます。
私のお寺では、12月22・23日と、例年通り報恩講(ほうおんこう)を勤めさせていただきました。
報恩講とは、申すまでもなく、親鸞聖人の御命日に先立って、それぞれのお寺で門信徒の方々が集まりやすい日を選んで、一堂に会してお勤めをし、そして聖人のお示しくださった おみのり を聞かせていただく法要であります。
そこで、私なりの報恩講についての味わいを述べさせていただきますと、それは多くの門信徒の方々の「おかげ」を味わうことが出来る集まり、それが報恩講法要ということであります。
毎年恒例の仏具の「おみがき」。本堂の清掃。境内の落葉拾い。私が生まれる以前から続けられております「立華」(りっか)。椴松(とどまつ)を切り倒し、枝を「木」(ぼく)と言われる幹に挿してお供えをいたします。それは大変な作業で、当然、人手がなければ出来ないことであります。
「御仏飯(おぶっぱん)にお供えしてください」とお米を持参してくださる方もあります。2日前には当番の方が集まってお餅をついて、小餅を手で丸めて何百個も作り、お供えをします。
お斎(とき)の時にいただく漬物も漬けます。ご法中のお寺さんのお茶菓子を手作りされる方。夜食の手打ち蕎麦を作ってくださる方。当日、幔幕(まんまく)を張ってくださる方。……等々、多くの方々の「おかげ」がなければ勤めることができないのが報恩講であります。
当日の法要の中ではわからないこともあるでしょうが、こうした多くの方々の支えがあってこそ成り立っているのがお寺にとって年中の最大行事である報恩講であります。
ですから、私にとっての報恩講は、お慈悲の温もりはもちろんのことでありますが、人と人との温もりを同時に感じ取らせていただける法要でもあります。これからも大切に勤めさせていただきたいと思っております。
今年も残りわずかとなりました。この時期になると一段と気ぜわしくなりますね。「もういくつ寝るとお正月」と歌いながら、早くお正月にならないかなと心待ちにしていた子どもの頃と比べると、なんと月日の経つのが早いことかと感じられますね。1日24時間、1年365日は誰にも同じ長さの時間であるはずなのに、年齢を重ねるごとに、ますますその速さに加速度がついてきます。これはどうしてなのか?
実は1年の長さは年齢を重ねるごとに短くなっているんです。1年は同じ長さでも、それぞれが経験してきた年齢分の1年(年/年齢)であるので、年齢が増えれば増えるほど分母が大きくなるため、1年の長さは短くなるのです。10歳の子どもでは10分の1年(1/10)、20歳の青年は20分の1年(1/20)、…私は57歳ですので、私にとってこの1年は57分の1年(1/57)となるのです。なるほど、歳を重ねるごとに速く感じられるはずです。気付かないでいると、あっという間に一生を過ごしてしまいます。
善導大師(ぜんどう-だいし)の『往生礼讃』(おうじょう-らいさん)の中にある「日没無常偈」(にちもつ-むじょう-げ)の句に
人間怱怱営衆務 人間怱怱として衆務を営み、
不覚年命日夜去 年命の日夜に去ることを覚えず。
如灯風中滅難期 灯の風中にありて滅して期し難しがごとし。
とあります。これは、人間は、慌ただしく・心せわしく日常生活のさまざまな勤めを営んで、あっという間に月日が過ぎ去ってしまうことに気付いていない。それはローソクの火が風の中にあっていつ消えるともわからない状態で、あわただしいことの多い迷いの境界には、まったく落ち着く場所もないようなものだ。と示している言葉です。
大晦日には1年の区切りとして神妙な心持ちで「ゆく年くる年」を見ながら除夜の鐘を聞いて、今年1年を振り返り、心新たにして新年を迎えます。しかし、心新たに迎えなければならないのは1日1日です。「ゆく日くる日」であります。
木村無相(きむら-むそう)さんが「今日1日が私のいのちである。今日1人どう生きるか」と問いかけの言葉をお示しくださいました。生きる縁をいただいて生かされているいのちである、……と、1日1日を大切に歩んでまいりたいものです。